校訓

 

校訓の制定
 明治38年(1905)5月9日に、校訓十則が定められた。その経緯を、板垣源次郎校長は「校友会雑誌」創刊号(明治39年3月)で、次のように述べている。

 学校の如き多数の集合体に於ては関係各自の要求に差別あるが故に相当に多く之を示す必要あるべし。即ち今日は於ては世界に於ける日本の国民として具備すべき資質は之を網羅したきものなり。帝国臣民の服膺すべき要件は、明治23年10月30日下賜せられたる教育に関する勅語に炳焉たりと雖も勅語の趣旨は幽邃探長なれば、更に此の趣旨を敷衍して簡明卑近に当校生徒の心得べき条項を示すは不可なることにはあらざるべし。校訓十則は即ち是なり。
 当校生徒諸君は常に教育に関する勅語の趣旨に遵ひ校訓の条項を守り善良なる校風の発揚に留意し忠良なる帝国臣民たらんことを心懸くべし。中にも諸子各自に特に適切なる条項は別段に之に用心したきものなり。又、校訓はすべて積極的に之を示したけれども消極的のことも共に必要なるは勿論なりとす。吾人は普通的たると共に特殊的たる必要あるべし。即ち平凡ならざるべからずと雖も亦同時に特徴なかるべからず。学校の如きも一般の事域一定の水平線以上に到着せしからは如何なる点か特別に発達して他に秀づる所ありたきものなり。諸子にして苟も能く如上の留意と心懸とあらんには当校の特徴庶幾くは発揮することを得んか。

  校訓十則
   一、言動容儀ヲ慎ムヘシ
   二、礼儀廉恥ヲ重ンスヘシ
   三、勤勉節倹ヲカムヘシ
   四、自治共同ヲ尚フヘシ
   五、公徳公益ヲ重ンスヘシ
   六、秩序規律ヲ守ルヘシ
   七、誠実信義ヲ旨トスヘシ
   八、清潔整齊ヲ尚フヘシ
   九、高尚優雅ノ志操ト快活剛毅ノ気象トヲ養フヘシ
   十、身体ヲ鍛錬シ強健ヲ図ルヘシ

 その後明治43年(1910)4月19日には、校訓は十則から五則に改められた。

  校訓
   第一 誠実剛毅ヲ旨トスヘシ
   第二 勤勉節倹ヲカムヘシ
   第三 自治共同ヲ尚フヘシ
   第四 秩序規律ヲ守ルヘシ
   第五 礼儀高潔ヲ重ンスヘシ

 さらに大正4年(1915)4月8日には、五則から三則に修正された。

  校訓
   第一 誠実ヲ旨トスヘシ
   第二 剛健ヲ尚フヘシ
   第三 高潔ヲ重ンスヘシ

 この校訓は、講堂演壇正面に額となって掲げられた。
 さらに時を経て、昭和13年(1938)3月発行の「校友会誌」第14号には、

  校訓
   誠実
   剛健
   高潔

とある。5代校長、園田軍平の時代だった。
 その後、新制高校になり、昭和28年度に、当時の校長飯塚宗之助(第8代校長・中16回)が、すでに女子生徒も在学中なので、互いに励まし合って仲よく学んでゆく精神を表す意味で「協和」を追加したいという提案をし、「剛健」に代わって「協和」が加えられた。しばらく「三則」の校訓が続いたが、昭和48年に「剛健」が復活し、「誠実・剛健・高潔・協和」の四則となり現在に至っている。
 ここで、「高潔」誕生にまつわるエピソードを一つ紹介しておく。元本校教諭長塚誠道(中36回)に、次のように記している。

 私の知る限りでは「高潔」という校訓は、本校以外には見たことがない。すばらしい校訓であると感銘した。高潔こそ人間にもとめられる最も大事な品性だからである。後年、先輩鶴間栄先生(中18回・元宮崎県立小林高等女学校長・元本校教諭)より校訓の制定者板垣源次郎校長が、次のような訓話をされたと伺ったことがある。誠実・剛健の徳は私共にとって大事なものであるが、この二つだけではこの地方に欠けている教養豊かな気高さとか、品格のよさというものは出てこない。そこで田夫野人的というか、粗野な風習から脱して、教養を備えた高い品性を陶冶すべく高潔の徳を校訓として掲げた。(後略)(「白幡台の青春」卒業五拾周年記念誌・旧中36回卒業生・平成2年10月)