校章

校旗

現在の校旗

 

旧校旗

 

 

新制高校の校旗について
 旧制の中学校時代には、明治41(1908)年4月19日に校旗の制定式が行われた。この校旗はさまざまな式典、学校行事、スポーツ大会等で用いられ、本校の象徴とされてきた。
 しかし、昭和23年に学生改革があり新制高等学校が誕生し、旧制中学校時代の校旗は、その役目を終えることになった。この後、しばらくの間は、校旗不在の時代に入った。
 昭和40年(1965)9月21日、真船始校長(第9代校長)の時に、新制高校の校旗が新調されて、「校旗樹立式」が行われた。この校旗は、昭和38年度、・39年度・40年度卒業生の卒業記念品として、金15万円によて作製されたものである。校旗の色彩・構図については、服部正一郎(中21回)、菅谷秀雄(高2回)の両画家が協力し、その製作については、東京都浅草橋の日ノ丸が担当した。
 これにより、旗手は、各年度2名が任命され、式典のときに校旗捧持を務めることとなった。現在でも毎年入学式、卒業式に学校長先導のもと、校旗の入場が厳粛に行われている。


校旗の制定
 校旗は、明治41年(1908)4月に制定された。本校は「天下の模範校」として文部省から表彰され、板垣校長がその功績により選奨された記念として寄付したものである。その経緯については、「校友会雑誌」第6号(明治41年12月)に次のようにある。

 第8回当校創立記念日の終了を告ぐるや、引続き校旗制定式を挙げられたり。抑もこの校旗は板垣学校長が教育勤労者として、文部省より選奨せられたる記念の為に、賜金(200円)の約一半を割きて其の費に充て、東京三越呉服店に命じて調製せしめ、以て、寄附せられしものにして、本誌の首に写し出したる即ちこれなり。高尚荘厳洵に景仰の情に堪へず。(後略)

 また、板垣校長は、この制定で、「此の校旗を当校の中心となし、精神とし、之を擁護し、其の名誉を挙揚せんことを切望す。」と述べている。しかし、誰のデザインによるものかについての記述は見当たらない。
 翌明治42年1月13日、「初めて旗手3人を置き、校旗擁護の任に当たらしむ。但し、任期は1学期間とし、以後毎学期の始めに於いてこれを命ず。」と、「茨城県立龍ケ崎中学校一覧」にある。
 以後、この旗手任命の制度は、現在まで継承され、入学式・卒業式等の重要な学校行事は、校長の先導による旗手の掲げる校旗入場から開始されている。これも本校の伝統の一つと言える。
 なお、旧龍中校旗は、創立百周年記念事業の一環として、平成12年12月に複製された。因みに、費用は約200万円である。

校歌

茨城県立竜ヶ崎第一高等学校校歌   作詞 寺田彰司 曲 旧制一高寮歌 「アムール川」(栗林宇一作曲)のものを借用

 

 
 
千秋の雪積もりたる
富士の高嶺の雄姿ぞ
幾万代の後までも
変わらぬ誠の鑑なる
あゝ此の山と此の川と
日夕眺むる健男児
自然の示す巨人をば
如何に学ばん習わなん
石段登る六十余
一足ごとに踏みかため
心を鍛え身を練りて
忠良有為の基たてん
奔流百里石をかみ
巌に激しいや増しに
勢い加わる利根の水
これ剛健のためしなり
白幡台の雪月花
四季の折々常総の
平野にしるく輝くは
高潔無垢の別天地
   

 

応援歌 作詞 中村重夫 補作 土井晩翠 曲 旧制二高(仙台)ボート部応援歌を借用

常南一角風起り
利根の川波すさぶ時
蛟竜いまや雲を得て
飛躍の姿永劫の
命をさけぶもののふの
意気と力の雄々しさよ
六つの花散る冬の日も
黄金をとかす夏の日も
臥薪嘗胆鍛えこし
鉄腕一度地になれば
鬼神閻羅も影をひめ
さとしの光照らすなり
人生意気に感じては
そもわが前に敵やある
勝利の大旆白幡の
台上高く押し立てて
九百健児諸共に
いざや歌わん弥栄を

 

120周年記念「応援歌」解説

校歌の制定
 明治45年(1912)1月8日、校歌が制定された。作詞は当時の教諭寺田彰司で、これに板垣源次郎校長が少し手を加えたものである。(「校友会誌」第33号(昭和6年3月)「創立30周年記念にあたって所感を述ぶ 前校長 宮本亜紀美」より)。
 寺田彰司教諭は、青森県出身。明治39年第一臨時教員養成所国語漢文科卒業。広島県立三次中学校、岩手県立遠野中学校各教諭を経て、明治42年1月本校に赴任し、国語漢文を担当する。
 「『白幡』90年のあゆみ」によると、「国文学者芳賀矢一氏」の校閲を受けたという。曲は当時の一高寮歌「アムール川」(栗林宇一作曲)の曲を借用したものである。」とある。
 因みに、本校校歌の元歌とされる「アムール川」は、栗林宇一が明治34年、旧制一高寮生時代、同じ寮生の塩田環の詞に曲をつけてものとされている。栗林は、この作曲後、胸を患って一高を中退、岡山の六高に入り直して、東大卒後二高の教授になり、その温厚で謙虚な人柄は、多くの学生に慕われていたという。さらに大正時代に入ってから5月1日の「メーデー歌」の元歌になったとある。(「読売新聞」昭和52年5月1日)
 なお、この曲を本校校歌に借用した経緯については、資料が見当たらず不明である。
 大正4年4月8日に、校訓が五則から三則に改正されると同時に、校歌も少し変更された。次に「校友会雑誌」第13号(大正元年11月)と同第24号(大正10年3月)に掲載されている校歌を挙げる。

 校歌
  一、千秋の雪積もりたる 富士の高嶺の雄姿は 幾万代の後まても かはらぬ誠実のかかみなり
  二、奔流百里石をかみ 巌に激しいやましに 勢くははる利根の水 これそ剛毅のためしなる
  三、ああこの山とこの河と 日夕眺むる健男子 自然の示す巨人をは 如何に学はんならはなん
  四、白幡台の雪月花 四季のをりをり常総の 平野にしるくかかやくは 高潔無垢の別天地
  五、石段のほる六十余 一歩毎に踏みかため 心を鍛へ身を練りて 忠良有為の本たてん
 (「校友会雑誌」第13号・大正元年11月)

 校歌
  一、千秋の雪積もりたる 富士の高嶺の雄姿そ 幾万代の後まても かはらぬ誠実のかかみなる
  二、奔流百里石をかみ 巌に激しいやましに 勢くははる利根の水 これそ剛健のためしなり
  三、ああこの山とこの河と 日夕眺むる健男子 自然の示す巨人をは 如何に学はんならはなん
  四、白幡台の雪月花 四季のをりをり常総の 平野にしるくかかやくは 高潔無垢の別天地
  五、石段のほる六十余 一歩毎に踏みかため 心を鍛へ身を練りて 忠良有為の本たてん
 (「校友会雑誌」第24号・大正10年3月)

 ところで、校歌には「白幡台の雪月花」と歌われているが、この白幡という呼び名について考えてみたい。しかし、残念ながら現存する史料では、確かな起源をたどることができないので、推測の域を出ないことをお許しいただきたい。
 校歌が制定されたのは、明治45年のことである。従って開校後十年くらいの間には白幡台という呼び名が定着していたと思われる。そこで、命名の由来として考えられるのは、第一には歴史的伝承による説である。すなわち、龍ケ崎方面開発の祖にあたる下河辺政義が、戦功によって源頼朝から常陸国南部の地頭職に補せられた。その後、子孫によって開発が続けられた。『竜ヶ崎郷土史』鈴木秀雄編(元本校教頭・中24回)には、「(前略)その館は交通の要衝奈戸岡に近く、前面の湿地帯を隔てて小貝川を眼下に見下ろす平畑の地、現竜ヶ崎一高の台地である。源三位頼政を祀る頼政神社は、下河辺一族の護り神であり、産土神であったと考えられる。源氏ゆかりの白幡の地名は、彼等の館址である。」とある。
 次に考えられるのは、「龍ケ崎町平畑」という固有の地名「ひらはた」からの転化である。わが国では古来名や地名について美称をつけたり、めでたい文字を借りて改める習慣があった。本校の場合も多分純真な若人の集う台地を象徴して「平」と一音違いの「白」で表し、「畑」は同音の「幡」(はた・のぼりの意)という佳字を当てたものと思われる。さらに推測を重ねれば、「校地献納記」の碑文にも「刀帆前に隠見す」という一節があるように、開校当時には利根川を上り下りする高瀬舟の白帆が時折遠望できる台地であったことも一因かと思う。ともあれ、若人が大勢集まった「高潔無垢の別天地」(校歌一節)のこの丘と、「白幡台」という言葉の印象がよく適合して、今日まで言い継がれてきたものと推察できる。
 本校の同窓会がいつの時代から「白幡同窓会」と称されるようになったかに関する記述は見当たらない。現存している資料では、「生徒会誌」第3号(昭和26年3月)の教務日誌抄に、「昭和25年4月3日白幡同窓会を開く。」とあるのが最初であるように思われる。


校歌の改定
 「茨城県立龍ケ崎中学校一覧」の大正4年4月の項に、「校訓を修正して三則とす。校歌も又少しく変更改する所あり。」とあるが、校訓については、すでに明治の項に記載してあるので、ここでは校歌について述べる。「校友会雑誌」第13号(大正元年11月)の巻頭に、当時の校歌が掲載されているが、第一節と第二節が次のようになっている。

  一、千秋の雪積りたる 富士の高嶺の雄姿は 幾萬代の後までも かはらぬ誠実のかかみなり
  二、奔流百里石をかみ 巌に激しいやましに 勢くははる利根の水 これそ剛健のためしなる

 現行の校歌に比べて、第一節の「雄姿は」と「かかみなり」の部分、第二節は「これそ剛健のためしなる」の部分が異なっている。第一節は古文に使われている文法の「係り結びの法則」に従って改正したのであり、第二節は「強意の助詞」「ぞ」を除き、「七五調」に改め、「なる」を「なり」と終止形にしたものである。第三節・第四節・第五節は現行のものと全く変わらない。